東京家庭裁判所八王子支部 昭和57年(家)809号 審判 1984年6月26日
申立人 山田睦子
主文
本件申立を却下する。
理由
一 本件申立の趣旨及び実情
申立人は、「申立人が、大村一雄(以下「大村」という)から、同人と申立人との間の婚姻届出の委託を受けたことの確認を求める。」との審判を求め、申立の実情として、「申立人は、昭和二〇年八月二八日満州黒龍江省阿城の日本人収容所において、大村と結婚式をあげ、同棲をはじめた。しかして、大村は、申立人との婚姻届出をなすことを望んでいたが、当時は終戦直後であり、日本との音信の方法がなく、婚姻届書を本籍地に送ることが不可能であつたため、前記収容所の事務所に同届出をなした。その後、大村は、昭和二一年五月五日同収容所において病死したが、如上の経緯により、申立人が大村から直接口頭で婚姻届出の委託を受けたことは間違いないので、当該届出委託の確認を求めるべく、本件申立に及んだ。」旨述べた。
二 当裁判所の判断
1 本件記録中の当庁家庭裁判所調査官○○○○作成の調査報告書三通、申立人審問の結果及びその余の資料並びに当庁昭和五七年(家イ)第六〇三号親子関係不存在確認申立事件記録によれば(但し、下記に認定する各事実に反する部分は除く。)、以下の各事実を認めることができる(なお、当時の満州における地名、部隊その他の団体名はいずれもその頃の呼称に従う。)。
ア 申立人は、大正一三年二月二〇日京都市において、父山田岩吉(昭和八年八月一一日死亡)、母同シマ(同四八年八月一四日死亡)の長女として出生し、下記の如く満州に渡るまで、同市において成長した。
イ 申立人は、当時、京都市の自宅の向いに住んでいた満州二〇〇〇部隊所属の中川主計少尉の父から「(満州の)阿城で軍属を必要としているので行つて欲しい。」と頼まれ、それに応じて、昭和一九年一二月満州に渡り、黒龍江省阿城市にあつた軍人会館において、満州三〇七部隊の軍属筆生として採用され勤務することとなつた。
ウ 申立人は、軍人会館に勤務している当時、周囲の者から中川少尉の許婚と思われていたところ、昭二〇年春頃より、三〇七部隊所属の曹長であつた千葉県出身の大村(大正九年二月一一日生)とも顔見知りとなつて口をきくようになり、それぞれの故郷や実家のことなどを話し合うこともあつたが、その頃は、同人とそれ以上の交際はなかつた。
エ 申立人と大村は、昭和二〇年八月一五日の終戦を迎えた直後より、阿城市の陸軍病院を転用した難民収容所に入つて生活するようになつた。しかして、申立人は、当時病気がちであり又ソ連兵に対する恐怖などから、大村を頼るようになり、同人も、食糧の調達や身辺の保護を含めて申立人の面倒をみるようになつた。このようなことから、申立人と大村は、難民収容所に入つて間もなく夫婦同様の暮しをするようになり、昭和二一年五月五日(但し、戸籍上は昭和二一年六月五日となつている)大村が同収容所で病死するまで事実上の夫婦として生活を続けていた。
オ 申立人は、昭和二一年春頃大村の子を懐妊したが、前記の如く大村が死亡した後の同年六月、八路軍の衛生部隊に捕虜として連行され、同部隊に看護婦として従軍させられるようになつたため、日本への引揚げも不可能となつた。
カ その後、申立人は、知人を通して中国人李敬鎮(西暦一九二〇年六月七日生)を紹介され、昭和二三年三月同人と婚姻した。
キ 申立人は、敬鎮と婚姻する以前の二二年一月五日、山東省太平橋の同人の親戚方で、大村との間の子である李淑春(日本名通称山田和子)を出産した(公証記録上、淑春の生年月日は西暦一九四八年(昭和二三年)六月二〇日とされているが、これは、当時、敬鎮が、同女を実子として中華人民共和国政府に届出るために生年月日を偽つたことによるものと認められる。)ところ、その後、敬鎮との間にも三女をもうけている。
ク 申立人は、昭和二八年五月、それまで守つていた大村の遺骨を納めるべく三か月間の滞在許可を得て一時帰国したが、その折りには同人の実家の所在がわからないまま中国に引返した。
ケ 申立人は、昭和五三年六月敬鎮を伴つて帰国し、その後淑春外三名の子らも呼び寄せて東京で生活するようになつているところ、淑春の帰化申請手続について問合せるべく東京法務局八王子支局に赴いた際、担当者から、本件申立の途があることを助言され、淑春において敬鎮との間の親子関係不存在確認申立(前掲当庁昭和五七年(家イ)第六〇三号事件)をなすにあわせて、同五七年四月七日本件申立に及んだ。
2ア 本件において明らかにされなければならないのは、「申立人において、大村から、同女と婚姻する旨の届出の委託(以下「本件届出委託」という)を受けた事実があつたか否か。」という点である。
しかして、如上認定のとおり、申立人と大村は、昭和二〇年八月一五日の終戦直後から同二一年五月五日までの間阿城の難民収容所において事実上の夫婦として生活をしており、両名間に淑春をもうけるまでになつていたことはまごうことなき事実であるが、かかる事実と本件届出委託の存否とはもとより別の問題であり、申立人と大村との間に前示のような関係があつたからといつて、そのことをもつて本件届出委託と同視するわけにはゆかないところである。
イ ところで、当裁判所は、本件に関し、○○調査官による調査を主とした、現時点における必要かつ可能と認められる限りの関係資料の収集を心掛けたわけであるが、結局、申立人が大村から本件届出委託を受けた事実を認定するに足る資料は、この点に係る申立人の供述以外に見出すことができなかつたのであり、してみると、本件届出委託の存否は、つまるところ、申立人の当該供述を措信してよいか否かということにかかつてくると言わざるを得ないのである。そこで、以下、申立人の供述を吟味検討することとする。
ウ(ア) 前掲調査報告書(昭和五九年三月一二日付)及び申立人審問の結果によれば、本件届出委託に係る申立人の供述経過及びその内容は要旨次のとおりである。
a ○○調査官による第一回目(昭和五七年四月二七日)の調査の際における申立人の供述(以下「a供述」という)。
「昭和二〇年五月頃、申立人と大村の間では結婚の話となり、それぞれの親にその旨手紙で連絡し、大村は父から結婚のためのお金を送つてもらつたとのことだつた。ただ、当時は、準尉以上じやないと官舎がもらえないとのことで、大村からは、もうすぐ準尉になれるから、そうしたら結婚しようと言われていた。昭和二〇年八月二八日収容所で挙式し、収容所の日本人会に婚姻届を提出した。」
b 同調査官による第四回目(昭和五八年九月四日)の調査の際における申立人の供述(以下「b供述」という)。
「申立人と大村が特別な関係をもつようになつたのは、終戦前からではなく、終戦直後阿城収容所に入つて以降のことである。収容所では、男は男、女は女の大部屋であつた。申立人は病気がちであつたが、看病するについては風紀上の問題があり、大村が女部屋に来るわけにはゆかなかつた。そこで、昭和二〇年九月頃、風呂の上り框の一画をもらい大村と暮すことになつたが、そのことにつき大村は、同人と申立人の結婚届を民会に出したと話してくれた。」
c 当裁判所の申立人に対する審問期日(昭和五九年四月一八日)における供述(以下「c供述」という)。
「一雄は曹長だつたので、準尉に上つたら官舎がもらえるから、それまで結婚できないと言つていたが、二人が阿城収容所に収容された後、一雄は、「申立人の身体が弱く、世話をするのに女性の部屋へ出入りするのはいやだから婚姻届を出した。」と言つていた。婚姻届は書面にして提出しなければならなかつたことは確かであるが、申立人が書面に記入したことはなく、判などはなかつたし、証人を立てたかどうかも知らない。」
(イ) 上記各供述を対比してみるに、特に、申立人と大村が結婚の話を交すようになつた時期及びその間の話の内容につき、a供述においてはこれを具体的に述べているのに対し、b供述においてはa供述を打消すようなことしか述べておらず、c供述においては再びa供述と同じように受取れる供述をなしており、又、日本人会(民会)に婚姻届出をなしたという点については、a供述において、「昭和二〇年八月二八日収容所で挙式し、収容所の日本人会に婚姻届を提出した。」旨述べている一方で、b供述及びc供述においては、「大村が、申立人との婚姻届を出しておいたと言つた。」旨供述内容を変えるなどの相違点が指摘できるのである。
(ウ) しかして、当時、大村が、申立人と婚姻する意思を有していたか否か、はたまた大村が申立人に対し、本件届出委託をなしたか否かを認定するに当り、重要な手掛りとなるべき事項に関し、当該届出委託を受けたと主張する申立人自身の供述の如上のような相違点が存することは、ことの性質上看過し得ないものがあると言わざるを得ない。
とりわけ、前掲調査報告書(昭和五九年三月一二日付)によれば、当時、三〇七部隊の場合、準尉に昇任していなくても曹長の二等級(二年目)になれば官舎に入れる可能性があつたと認められること(調査資料中の留守名簿によれば、大村が曹長に昇任したのは昭和一九年一二月一日である。)、終戦直後の阿城収容所において、申立人と大村が「挙式」と言えるような意味での結婚式を行うことはほとんど不可能な状況ではなかつたかと思われること、又、前掲申立人審問の結果によれば、同人自身、「一雄は、当時実家へ、申立人との結婚のことを知らせたというようなことは言つていなかつたように思う云々。」旨供述していること等に照すと、前掲申立人の各供述のうち(但し、本件届出委託に係る部分を除く。)b供述のそれが、当時の申立人と大村との関係に最も即したものであると考えられるのであるが(それゆえに、前記1イないしオの各事実が認定されるのである。)、そうであるならば、申立人において、何故a供述やc供述の如きことを口にしたのか、端的に当初から一貫してb供述をすることができなかつたのかという疑問が生ずるのである。
(エ) もつとも、事柄は四〇年近くも昔の、しかも、外地における終戦前後にわたる混乱した情勢下での話であり、又、前掲調査報告書(昭和五九年三月一二日付及び同年五月三一日付)によるも、大村が婚姻届を出したとされる阿城収容所内の日本人(民)会が、かかる届出事務に関し、当時どの程度の役割を有し、いかなる機能を果していたのか十分に把握し難い面がある等の事情が存するわけであるから、申立人の供述中には記憶の欠落や思い違いに基づく部分が生ずる可能性があることは予測されなくもないところである。
しかし、前掲調査報告書(昭和五九年三月一二日付)に基づき、本件における申立人の供述経過、特にa供述からb供述に至る間のそれをみるに、○○調査官が、昭和五七年四月二七日第一回目の調査を行い、申立人からa供述を聴取した後、更に関係方面の調査を進めたところ、当該調査結果から判明した申立人と大村をめぐる当時の事実関係(即ち、前記1イないしオで認定したもの)とa供述との間に齟齬が認められたため、その点についての疑問を明確にすべく、同調査官において、同五七年八月一八日(第二回目)及び同五八年六月九日(第三回目)の両日申立人から事情聴取を試みたが、いずれの場合も申立人において中国残留当時の辛苦や日本政府の対応に対する不満を繰返すことに終始するのみであつて、くだんの疑問点に対する直接の応答はなく、その後、前記の如く同五八年九月四日(第四回目)の調査に至つてやつとb供述をなしたという経緯が認められるところ、かかる次第に照すと、前記相違点を含む申立人の各供述が、単なる記憶の欠落ないし錯覚によつてなされたものとばかりは考え難いのである。
エ 以上検討したところによれば、申立人と大村が当時事実上の夫婦関係にあり、両名の間に淑春が出生していることを考慮に入れてもなお、申立人の各供述は、「申立人と大村が日本人(民)会に婚姻届出をなした。」あるいは「日本人(民)会に婚姻届出をしておいたということを大村から聞かされた。」旨の事実を認定するに足る資料となし得るか否かという限りにおいては、一貫しないところがあつて合理性を欠き、信を措き難く採用することができないと言わざるを得ない。
してみると、上記事実の存在することを根拠にして、大村から申立人に本件届出委託がなされた旨述べる申立人の主張は認容し難いことに帰すると言うべきであり、他に同届出委託の存在を肯定するに足る資料は見出せない。
三 よつて、当裁判所は、申立人の本件申立につき理由がないと判断するのでこれを却下すべきと思料し、主文のとおり審判する。
(家事審判官 石村太郎)